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泰助の記 もののふの道


【井上源三郎埋葬地を訪ねて!】 

市川三千代さん調査報告 2008 3 10

  『井上源三郎埋葬地を訪ねて』       市川三千代   平成20年3月26日


五年程前、日野新選組ガイドの研修の時、鳥羽伏見の戦で淀千両松で戦死した井上源三郎の首級と刀をあるお寺の門前に埋めた甥の井上泰助に興味を持ちました。

後に息子覚太郎の妻ケイさんに、大阪のほうに行くことがあればお参りするようにと、寺の名前を告げた話は有名ですが、ケイさんが失念した寺は何処なのか? 大切 な寺の名前を忘れることがあるのだろうか?と疑問に思いました。

千両松から淀城までは二キロ程です。お寺の数も三〜四軒ぐらいなのに、何故今まで埋葬地が分からないのだろうと不思議でしたので、いつかその地を歩いてみたいと 思っておりました。

京都での新選組の史跡巡りも京の町中心でした。昨年の三月、伏見奉行所跡、御香宮神社、桝屋跡のしる幸、四国屋跡の金茶寮などを訪れましたが、淀には行けず心残りでした。

ニ〇〇七年十一月に日野市郷土資料館の勝五郎調査団で鳥取・松江を訪れた際、帰りに淀千両松を歩き激戦地で無念と絶望のうちに散っていった多くの会津・新選組隊士達を偲ぶつもりでした。


 

淀城址 


鳥羽伏見で敗れそうになり、淀藩(老中、稲葉家)を頼っていった幕府軍に対し、淀城は入城許否、負け戦を決定づけることになりました。「源さんを失った悲しみ、そして錦の御旗に驚き大混乱の中、指揮をした土方歳三を思い涙が出ました。


その後、新選組ファンでの間では有名な妙教寺を訪れると門前にご住職がいらっしゃり、本堂に残る砲弾が飛び込んだ跡や、傷ついた柱、大砲の重い弾など見せて下さいました。



   

妙教寺山門


 

戊辰役東軍砲弾飛込口
   


毎年二月四日には法要を営まれ、妙教寺で作って下さった位牌には、八番楳木(うめのき)
士三十八名、卒三名、愛宕茶屋 士十七名、卒十八名と彫られていました。

源三郎さんは、八番楳木に葬られていますと言われ合掌しました。

「源三郎さんのご子孫はいるのですか?」と聞かれましたので、「ご子孫の井上雅雄さんが資料館をしています。二月四日の法要に来られるようお話をします」と答えました。





 淀古地図


淀城の古絵図を見せて下さり、色々と説明も聞きましたが、その時はパネルが小さく欣浄寺のことはきずきませんでした。

「淀城の大手門守備隊長田辺治之助が切腹したのを知っていますか?幕軍が何人か門の中に入りその責任を取って正月六日に死んだのです」

私は、門には誰も入れなかったと歴史の本には書いてあり、初めて聞く話にびっくりしました。
「淀城跡に大きな碑があるので帰りに見て下さい」と言われ、礼を述べてお寺をあとにしました。


 

淀小橋旧址


 

愛宕茶屋埋葬地碑


その後愛宕茶屋埋葬地をお参りし、千両松の慰霊碑を探しに国道を歩きました。

歩き疲れた私は歩道橋で立ち止まり休みました。

そこが欣浄寺の墓地だったと後でわかった時は不思議な仏縁を感じました。


やっと着いた京都競馬場の高架下に、「戊辰役東軍西軍激戦之跡」の碑があり やっと源三郎さんに会えたと感動しました。

駅に戻り電車に乗ろうとしましたが、ご住職のお話の田辺治之助の碑が気になり淀城跡へ向いました。入り口に絵図が掲げてあり、眺めていると何故か『欣浄寺』という文字が目に飛び込んできました。

私はびっくりし、北原の欣浄寺と同じ名前のお寺が納所にあったのだ。泰助が埋めたのは、このお寺ではないかと頭がくらくらしましたが、引き返して調べる元気がなく、次の予定地大阪の八軒屋船着場や鴻池跡、平野屋跡へ向かいました。大鳥圭介が学んだ適塾の二階の部屋と和蘭事典のゾーツハルを見る目的もあり、心残りでしたので、東京へ帰ってから妙教寺ご住職へ手紙を書き、古絵図に欣浄寺の名前があるか調べて頂きました。


 

淀古地図欣浄寺拡大図



待ちに待った返事には、寛延三年(1750)に淀藩の絵師が画いた淀城府内図によると欣浄寺は存在しますが、現在はありません。近くに浄盛院があり、同じ浄土宗なので そこが引き継いだかも知れませんと書いてあり、絵地図のコピーや門前で出土した古い刀の写真、現在地図等を送って頂きました。




淀 欣浄寺銘の彫られた什物


感謝しつつ井上雅雄様に伝えました。


そしたら何と何と井上ケイさんは、源三郎の首級を泰助が埋めたお寺の門前というのは、「欣浄寺」だと言っていたそうです。翌日もまた同じ答えで、これを聞いた故、 谷春雄さん(日野の新選組研究家)や井上家の人達は、欣浄寺はうちの前ではないか、おばあさんも歳でボケたなあ、とあっさり片付けられ、以来「ケイさんも老齢のため、この寺の名前を思い出せずまことに残念だった・・・・」と活字に記され今日に至っている。


ここまで井上館長と話し合い

情報交換した私たち二人は飛び上がらんばかりに驚き、喜び合いました。


やっと今迄の疑問が一気に解けた思いでした。

思えば、井上泰助(当時十二歳)が、源三郎の首級をぶら下げ敗走していた時、この重さについつい遅れがちになり、同行の新選組隊士から『残念だが捨てろ』と言われた時、たまたま目の前にあったお寺が故郷の欣浄寺と同じ名前なので、ここなら源三郎叔父も安らかに休めるだろうと考え、即座に埋葬したことは十分に頷けます。



その後、谷さん、原田さん、西村さんはじめ皆様の努力で埋葬地がほぼ確定できたので、平成二十年三月十日、井上館長はじめ宮川清蔵様、土方愛様、佐藤福子様や、関心を持って下さった十余名が京都に赴き、現地確認を致しました。

京都に行く前には、欣浄寺が、安政年間(1854〜1859)に廃寺となり、明治六年にはこの土地などが払い下げられている京都府の古文書なども見つかったりし、廃寺の理由は解かりませんが、現地に行き、欣浄寺が存在したことを示す同寺のご本尊、地蔵 菩薩像が地区の同じ宗派の浄盛院に今も祀られ、また欣浄寺名の彫られた什物が、同宗派の寺院にあることをこの目で見たことは大きな収穫でした。


欣浄寺の跡地には、今はマンションが建っているが、そこの地主さんの話では以前整地の際、墓石と多量の人骨が出たという事を聞きました。

近くのうどん屋さんでも同じような話をされました。




淀千両松の東軍慰霊碑


その後、源三郎さんの散華の地である千両松へ向かいました。京都競馬場工事の際、作業員が夜中に「もとの場所へ帰せ」という声を聞いた場所です。


雨が上がり青い空の下で献花し、宮川様と井上様の読経に手を合わせ百四十年振りに欣浄寺が見つかったことを報告し、戦没した方たちの冥福を祈りました。





昭和四十五年に建てられた碑文に「いづれもが正しいと信じたるままにそれぞれの道へと己等の誠を尽くしたる・・・ 在天の魂以て冥すべし 中村勝五郎識す」とあり、勝五郎調査団で始まり勝五郎で終了した旅に不思議な縁を感じます。

奇しくも近藤勇の幼名「勝五郎」と同じです。


今回の確認旅行は、故郷に帰りたい井上源三郎の魂が、私をはじめ参加された皆様を 動かしたと思います。


井上館長は欣浄寺跡地の土を持ち帰られました。



そして三月十五日源三郎さんと谷春雄さんのお墓に参加された皆様で報告致しました。


いつの日かこの地に記念碑を建立されればこれに過ぎたる喜びはありません。

今はその実現を祈るのみです。





勝五郎調査団について

日野には文化7年程久保村の藤蔵が疱瘡で六歳で死に、 文化十ニ年中野村の勝五郎として生まれ変わった不思議な物語があります。

鳥取藩支藩の若桜藩主池田冠山や小泉八雲が著し評判になりました。

九月から十ニ月まで新選組のふるさと歴史館で展示されます。

日野市郷土資料館ではボランティア調査団をつくり開催準備をしています。





















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