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『井上泰助の記録  2008 9月27日 講演会記録』 鈴木藤隆

 

井上泰助肖像画  

 「松五郎・源三郎兄弟の事蹟」に掲載されている70代の泰助

2008年日野宿最期の名主 下佐藤家古写真から「井上泰助」の

60代、精悍な顔立ちの写真が見つかりました(資料館で展示中)



井上松五郎・次男「泰助」

泰助は日野宿北原、井上家、千人同心、井上松五郎の次男として安政二年(1855)に誕生した。松五郎長女、モトは新選組隊士、松本捨助に嫁し、長男、定次郎は父の松五郎と共に流行病で明治四年に相次いで亡くなっている。

幕末の井上家

泰助が幼少の頃、佐藤彦五郎日記によれば安政四年(1857)五月六日、近藤勇来る、欣浄寺で稽古とある。まだ三歳であつた泰助の耳にも甲高い勇の声が聞こえていたにちがいない。当然、剣術好きの源三郎、松五郎は稽古に参加していたので、すぐ傍で泰助も稽古を見ていたかも知れない。

八坂神社奉納額と六所宮の大奉納額

翌、安政五年(1858)仲秋には八坂神社奉納額が掲げられ、井上松五郎、井上源三郎、安西平助と記載されている。土方歳三、二十四歳はこの額には名前がのらず、奮起して安政六年(1859)天然理心流に正式入門した。五歳になっていた泰助も若き歳三の記憶があった可能性が高いと思われる。

万延元年(1860)九月二十一日、奉額の義二付、北原松ヲ府中宿へ差遣し候など、六所宮の大奉納額が掲げられた。周到な準備を経て完成した奉納額にも間違いなく井上松五郎、井上源三郎、安西平助ら日野宿の門人も列挙されていたと考えられる。表陰刃引木刀試合には松五郎も登場したと小島鹿之助宛佐藤彦五郎書簡にも記されている。

六所宮 東の広場にて襲名野試合

そして文久元年(1861)八月二十七日、六所宮、東の広場での天然理心流四代目襲名野試合では東軍、西軍に分かれ、井上松五郎が参戦、井上源三郎は鉦役、沖田総司は太鼓を任された。双方乱戦となり大将どうしの一騎打ちの末、白軍が勝利、日野宿門人達も大いに活躍して日野から観覧に出掛けていた幼い泰助も感動を覚えたのではないだろうか、井上家周辺の日野宿も剣術稽古一色であったと思われる。

将軍「家茂」上洛と浪士組

文久三年(1863)八歳になっていた泰助は父、松五郎が千人同心として将軍警護に上洛、又叔父、源三郎と井上分家の林太郎が浪士組として京に向かうべく、慌しく準備する姿に少年泰助は慌しさと共に憧れをもって眺めていたのであろう。

京に到着した松五郎や彦五郎の手紙からはるか王城の地の様子が逐次伝わってくる。井上松五郎の日記には京都での任務の傍ら浪士組参加者からの諸々の相談など重要役割りも担っていた。

警護の任務を果たした松五郎は文久三年(1863)七月三日、東海道を下り帰還した。御上洛御供旅記録によれば七月四日、下染の糟谷良順宅に寄って、府中宿松本屋で休み、石田村の石翠の出迎えを受けて親類、近所衆の出迎えをうけ日野宿に無事到着したと記されている。

帰ったきた父、松五郎の土産話は泰助少年にとって今までにない衝撃の連続であったろう。近隣、親戚が松五郎の周りに集まり、遠い京までの旅と京都での様子が生々しく話された。

いつしか泰助の心の中にも武士への憧れが募ってくる。

新選組隊士「井上泰助」誕生!!

慶応三年九月その時がやってきた。佐藤彦五郎日記によれば慶応三年(1867)九月二十五日、昨日、土方歳三・井上源三郎、江戸着致し、今日、亀吉差越し、彦五郎へ談判いたし度有之間、明日出府いたし呉候様申来り候処とある。二十八日には彦五郎・松五郎・定次郎同道出府、、市ヶ谷柳町近藤え相越し、土方歳三・井上源三郎二面会、同家え泊り候。

十月七日、彦五郎の日記に朱記されたのは、

新選組 土方歳三・井上源三郎両人、乗馬にて来ル、

凛々しい歳三と叔父源三郎の姿に泰助は感動を覚えた。父・叔父・歳三から聞く話は想像を遥かに超える厳しい世界であつた。泰助の抑えがたい気持ちと、叔父源三郎が傍らにいる安心感、そして次男である事も幸いしたであろう。 なんと泰助は京に上る事となったのである。

この時は僅か数ヶ月先に叔父源三郎が亡くなる事などは知るよしも無かった。

彦五郎日記、慶応三年(1867)十月十一日、歳三・源三郎共、今朝江戸出立、神奈川宿泊り二付、右泊りえ向ヶ、川蔵罷出候事、とある。

この神奈川宿は釜屋半右衛門で品川町史によれば、慶應三年(1867)卯十月十一日登

新撰組土方歳三御家族・門人共上下卅壱人 休 九貫三百文と記されている。


この記述「御家族」は子供連れと宿屋の主人は書いたのでないか。 泰助が一緒であった可能性が高い。

後に京都に到着した時の沖田総司書簡が存在する。十二歳の泰助は近藤勇の小姓として太刀持ちをしたと伝わっており年齢が近い慶応三年入隊の市村鉄之助らとは新選組内の規律や行動について教えられた事と思われる。


激動の幕末

しかし、穏やかな日日は長くは続かなかった。泰政奉還・王政復古の大号令とともに時代の歯車は動きだした。
近藤勇は墨染で狙撃され右肩を打ち抜かれた。この後、薩摩藩の誘いに乗り薩摩藩邸焼き討ち、鳥羽・伏見の戦い勃発(日野市所蔵 相馬主計の贈友談話が詳しい)江戸帰還。


泰助離脱後、彦五郎は日光にいる松五郎宛書簡、慶応四年(1868)二月朔日、鳥羽・伏見の様子と元込銃購入の中で泰助無事を追伸で報告している。


       井上様
           二白、節角時候御厭ひ可被成候、当節柄二而ハ

           身体丈夫二無之ノ候ハゝ大名二も不被相成、御子息

           泰助者無別条笑ひ騒き居り候間、御放神

           可被成候、以上      


                        (井上源三郎資料館蔵)




井上家と沖田家とは姻戚である。総司の姉・ミツの所へ、井上分家・井上惣蔵の弟・林太郎が

婿入りし、林太郎とミツの間に生まれた長男・芳次郎のところへ松五郎の末娘・はなが嫁入りしている。

井上林太郎元常  井上林太郎房正 そして宮原家と井上分家は姻戚でもある。

「井上泰助が書いた手紙の下書」    原本は井上源三郎資料館に展示されています

沖田御祖母様よくよく御考へ下され私シノ言う迄モ無く様、

御祖母様の父タル者ハ、私宅分家井上惣蔵ナル者の弟、

御祖母様のつれ合、亡林太郎殿モ井上宗蔵ナル者ノ弟ニテ

姓ハ沖田家ヲ惣(相)続依スレ共骨水ハ井上ノ交合スル其旧縁

ニ依リ亡林太郎殿、倅芳次郎殿モ同じにして、宮川久五郎娘・・・後略


                  





















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