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泰助の記 もののふの道


夢酔藤山プロフィール
【各受賞歴】
平成12年
 第73回コスモス文学新人賞長編小説部門
 (新人賞)作品名「奇本太閤記」
平成13年
 フーコー第9回短編小説部門
 (優秀賞)作品名「定家ひとり芝居」
平成14年
 21世紀に残しておきたい郷土史大賞
 (優秀作品賞)作品名「狭霧の伝説」
平成15年
 第2回碧天文芸大賞
 (奨励賞)作品名「小町のひとりごと」
平成16年
 第14回健友館文学大賞
 (佳作)作品名「かほるこ 源氏物語異聞」
 第1回愛知出版賞
 (優秀賞)作品名「閻魔の庁」
平成25年
 雅出版大賞
 (佳作)作品名「冬の光-房総里見前記-」


井上松五郎記
                              夢酔藤山 作




【目次】
 第一話 玉石混淆
 第二話 有象無象
 第三話 当意即妙
 第四話 霜止出苗



  玉石混淆





 嘉永六年(1853)六月三日、浦賀に黒船がやってくると、江戸からほど遠い多摩地方も俄に騒然となった。既に西洋の情報は、蘭学の盛んな八王子千人同心のなかでも囁かれていたし、今回の黒船来航を
「自然と」
受け止めていた者も少なくない。
 八王子千人同心は十との隊で構成され、それぞれの下に頭を設けて同心の統轄をしていた。だから千人が一堂に会することは、まずあり得なかった。そのなかには、文武を極めた学者肌の同心も大勢いた。彼らは極めた武で道場を開き、地域の武士や豪農たちに剣術を指導した。また同様に、修めた学問で、身分を問わず志のある者への講義を惜しみなく行ない、かつ、向学心のある者にはより高度な学問を論じた。だから流派門下が集中しやすい傾向にあり、従って、江戸市中の民衆よりも平然と、世界というものを理解した。
 当節、好奇心旺盛な者たちは、御禁制の黒船見物に出掛けたりもした。のちの幕末混沌にはまだ早い、そんな静けさを湛えながら、やはり時代の波は、どっと多摩地方を洗っていった。
 千人同心のなかでは平時に農耕を営む者が少なくない。
 これは幕府の身分制度である〈士農工商〉の枠から微妙にずれた立場に、多摩の人間たちが置かれていたことを意味する。多摩地方は徳川三百年を通じて幕府直轄領すなわち天領であった。農民たちは将軍さま直々の百姓という自負が強い。そして千人同心の構成も、時代が下るごとに豪農層まで同心株の取得が拡大していく。だから幕末期の千人同心は、士農の中間に漂う人々が大半を占めていた。そして彼らは姓と禄を糧に、誇り高き公儀のお勤めを遂行していた。
 百姓ながらに武道を学び、百姓ながらに学を論ずる。多摩地方のすべてとはいわぬが、千人同心のいるところは、概ねそのような文化水準を保っていた。千人同心の中核を担う者たちのなかには、剣術の技を極めて師範となったり、指南役を委される者も少なくなかった。主に同心たちが指導し、また学びの門徒が多かったのは、甲源一刀流・太平真鏡流・天然理心流といった多摩地方に根強い剣術である。
 太平真鏡流は千人同心で高給取りが主に学んだとされる。千人同心組頭・塩野鶏沢はこの流派創始者・若名真鏡斎に剣を学んだ。塩野鶏沢には子がなく、河野家から養子を貰った。それが『桑都日記』『新編武蔵風土記稿』を記した塩野適斎である。塩野適斎は養父同様、若名真鏡斎に剣術を習い、別系の太平真鏡流二代目を襲名した。そのため千人同心頭が屋敷を構える千人町に道場を開いて指導を行ったという。だから千人同心の指導者層にあたる者たちは、この太平真鏡流の門をくぐった。
 戸吹村に根付いた天然理心流道場には、中堅層の千人同心がその門を叩いた。二代目を襲名した近藤三助方昌はもと戸吹村名主・坂本家の人間である。そのためか、八王子郊外の千人同心がこの流派に集った。増田蔵六一武は戸吹村出身。宮岡三八富矩は大久野村だが、父の代から戸吹で天然理心流を学んでいた。〈戸吹の小天狗〉の異名をとる使い手は松崎正作栄積、その子・和多五郎則栄も天然理心流の門人だ。いずれも千人同心である。千人同心たちを中心に栄えた剣術であるが、そうでない者もなかにはいる。天然理心流はそのような者たちも広く受け容れた。そのなかのひとりが、島崎周平という男である。
近藤三助は四六歳で急逝した。そのため奥義は失われたが、技は弟子たちに受け継がれる。もともと近藤の家は後継者を養子にとっていたから、三代目をどうするか、さぞや紛糾したことだろう。
高弟の序列や実力でいえば、三代目の有力候補者は増田蔵六だ。しかし彼は、近藤宗家襲名を畏れ多いことと考え、あくまでも師範代の地位に徹した。三助の死後一〇年ほど経ってから、三代目を襲名したのが、島崎周平である。以後、彼は近藤周助邦武を名乗り天然理心流を継ぐ。
 千人同心の多くは戸吹の流派に属していた。戸吹には派閥があり、八王子には別の流派が幅を利かせていた。自然と、周助は南多摩の豪農層へ剣の普及をせざるを得なかった。だから、宗家とはいえ、近藤周助の旗揚げは寂しい門出だったに違いない
多摩の百姓は勤勉だ。彼らは世情が不穏であることを悟り、自衛のために進んで剣術を学ぼうとした。そのときに近藤周助を支えたのが、千人同心でもある井上松五郎だった。彼は温厚で実直な人格者として知られ、その熱心に学ぶ流派を、日野の若者たちが放っておく筈がなかった。日野宿大火のどさくさで祖母を殺された宿名主・佐藤彦五郎俊正も、やがて松五郎を介して近藤周助に入門した。彦五郎が入門すると、いよいよ日野の男たちは天然理心流近藤周助道場へ走るようになった。南多摩広域では小島鹿之助・橋本道助といった名主層も参じた。
 黒船来航はわずか四年後のことである。
 井上松五郎のおかげで佐藤彦五郎は剣術を受け容れ、自らも研鑽に励み、豪農名主の身でありながら熱中した。日野に先駆けて剣術に没頭した小野路村名主・小島鹿之助為政に負けたくないという意気込みもあったのかも知れない。松五郎の弟・源三郎は兄に遅れて入門したが、その才は優れており、すぐに目録まで昇段した。源三郎は井上家で百姓まがいの生活をしている。正直、長男でない者は肩身が狭いものだ。だからだろうか、何かにつけては彦五郎に呼び出され
「剣術しよう」
と付き合わされた。この気遣いに甘えて、源三郎は剣に没頭した。それでも兄・松五郎にはまったく勝てなかった。源三郎とて、存分な強さだが、こればかりは努力だけでは越えられない〈才能〉だったのかもしれない。
「黒船がきて大騒ぎしてんのに、何をしているんですか。源さんもうちの人のいうことに、いちいち聞かないでください」
 妻・ノブにそういわれると、さすがの彦五郎も形無しである。
「黒船に乗っているのは高尾山の天狗という噂だけど、本当ですかね?」
 源三郎は真面目そうに呟いた。彦五郎は吹き出しながら
「そんなこと松五郎の前で云ってみろ。恥掻かされたって、怒り狂うぜ」
と肩を叩いた。この頃の日野は、つまりはそんなこんなで、世情こそ騒がしく宿場には山のような情報がもたらされていたが、物騒な気配は感じられなかったのである。

 この黒船の騒動中も千人同心の日光勤番は続いていた。徳川三〇〇年の伝統を守る大切な御役目である。その勤番から外れていた千人同心頭たちは、黒船来航以前から西洋式軍制改革に取り掛かっていた。かなりの先見である。そのことも手伝い、対応が鈍い幕府旗本たちへと、千人同心頭たちは苦々しい視線を傾けていた。
「さしあたって江戸表へ詰めよとの仰せもない」
「旗指し物などは銘々で調達するものなのか」
 そんな愚痴が千人同心役宅で繰り広げられたことは、勤務日記である『月番日記』の記録から明白である。幕府槍奉行からは千人同心長柄調練の件が口頭で下問され
「それについてはぬかりなく稽古をしており候」
などと頭たちはそつなく回答している。しかし、幕府上層部の判断が鈍く、黒船対策の方針がまったく見当つかない以上、やみくもな夷敵に備える稽古は、ただの徒労以外の何物でもない。
 動乱の影は、少なくともこのとき、多摩地方にその影を落としてはいなかった。





 嘉永七年(1854)三月二六日、千人頭・石坂弥次右衛門宅において、組頭および同心一八名による武術調練が行なわれ、井上松五郎もそれに参加した。飄々とした外見とは裏腹に、いざ木刀を握ったときの松五郎は裂帛の気迫を漲らせ、石坂弥次右衛門も
「これは恐ろしい」
と呟かずにはいられなかった。
とまれ千人同心の主な戦術は槍術である。そして、千人頭・河野仲次郎を中心に西洋式軍制の調練も始まっている。井上松五郎は日本古来の剣武こそ抜群に輝いたが、西洋式調練は正直なところ苦手だった。手籠め銃の操作も、構えも隊列も、理に適うものか正直わからない。それでも剣客としての技量は、誰もが認めるところであった。
 この調練より七日経った四月三日、千人同心日光防火隊什伍長・松崎正作栄積が没した。天然理心流二代目・近藤三助に入門し、三助亡きあとは門兄・増田蔵六から指南を受け、戸吹の小天狗という異名で知られた剣の達人が死んだのである。
「戸吹は何かと敷居が高くてな、松五郎に任せる」
 近藤周助からそう託された井上松五郎は、代表として弔問に赴いた。何よりも同じ千人同心であるし、門閥はどうあれ、同じ天然理心流である。厄介の押しつけではあるが、これは最適の人選に違いない。戸吹の松崎家では、葬儀一切を増田門下の道場で取り仕切っていた。そこには険しい面魂の屈強そうな男たちが揃っていた。
「松五郎殿か、久しいな」
 そう声を掛けてきたのは、増田蔵六一武である。人望的にも基盤的にも、本来的でいえば天然理心流宗家三代目に相応しい人物だ。これまでも千人町の天然理心流道場で両者は顔を合わせているし、何よりも松五郎の技量を増田蔵六は大いに認めていた。
「周助殿は、やはり見えなかったか」
「それがしが名代にて」
「まだ拘っているのか、昔のことを」
 近藤宗家襲名のいざこざは、天然理心流の幹部たちの間では禁句になっている。一門の総帥たる増田蔵六への非礼が、今も近藤周助を縛り付けているようだ。弔問のときぐらいは胸襟を開いて欲しいという増田蔵六の願いも、一方的な上から目線であった。勿論、そのことくらい増田蔵六も弁えている。それだけに名代である松五郎に恥をかかさぬよう、増田蔵六は門人たちへ厳しく達した。
 もっとも井上松五郎にその厚情は無用だった。戸吹の一門は松五郎の人間性を高く評価している。陰湿なことを試みる者は、ただの一人もいなかった。
「弔問、かたじけない」
 喪主の和多五郎は泰然と松五郎に頭を下げた。
 帰りしな、門外で増田蔵六が呼び止めた。
「ご苦労だったな」
「いえ」
「周助殿に伝えておくれ、儂のときは、顔を出してくれよ」
「縁起でもない」
「本気で云うておる」
「されば、申し伝えましょう」
 松五郎は静かに一礼した。
 この葬礼のすべての報告に
「わかった」
 近藤周助はそれだけ呟いて、あとは口を閉ざした。

 六月に入ると、黒船再来に備えた御台場構築の話が立ち上がり、鑓水村の松が土台の用材として切り出された。幕府は鎖国を守るために戦う意思を示したものと、多摩の者たちは心強く思ったものだが、その結果は惨めなものであった。予定した基数を大きく下回る台場と、一戦交えることなく締結した日米和親条約は、幕臣のみならず日の本の国の根幹を揺さぶった。
「腰抜けめ」
 そう悪態つく者も少なくないが、千人同心のなかには西洋に対する知識が存外広まっている。いまの幕府の状態では、諸外国には叶わない。だからこそ、西洋式軍制改革は急務であるという声が、千人同心から幕府槍奉行へと奏上された。それに対する返事は、勿論あるはずがない。
 嘉永七年は一ヶ月を残して安政元年に改元され、瞬く間に安政二年となった。この年、西洋式軍制改革を推進していた韮山代官・江川太郎左衛門英龍が五五歳で没した。しかし江川太郎左衛門の蒔いた種は、着実に幕府を動かしていた。老中・阿部正弘は大名・旗本に至るまで洋式銃陣の修行を命じ、芝新銭座大小砲習練場を組織させた。これにより千人同心も六月二九日より西洋伝銃陣稽古を開始する。
 時代は大きく変わろうとした。
 井上松五郎もまたその例外ではない。千人同心である以上、銃に精通することは、基本中の基本であった。そのうえでなお、徹して剣技を極めようと、松五郎は精進した。その甲斐あってこの年、井上松五郎は天然理心流中極位目録を納める。
 西洋式軍制改革が進められても、個人的な技能を支えたのはやはり剣であった。
安政四年、老中・阿部正弘が没すると、再び時代がうねった。大老に就任した井伊直弼は、弾圧による幕政改革に踏み切った。世にいう〈安政の大獄〉である。
 新しい風と復古の波が、繰り返した。
小さく小刻みな波は、天保・弘化・嘉永と、年号を改める毎に広く深くうねり出した。井上松五郎はその波に漂う小舟のような焦燥と不安を噛み締めていたに違いない。
万延元年(1860)五月、井上松五郎は天然理心流免許を修めた。


   有象無象





 世の中は大きくねり潮の如く波打った。文久二年(1862)にもなると、時代の胎動を誰もが肌に感じられるようになっていた。
 京都では尊皇攘夷に燃える志士と名乗る浪人者が、開国論者や西洋学者たちを
「天誅」
と称して、白昼堂々と暗殺に明け暮れていた。
 時の帝である孝明天皇は熱烈な攘夷論者である。そのため公武一体で国難に立ち向かうべく、皇妹和宮親子内親王を一四代将軍徳川家茂に降嫁させた。幕府は将軍上洛を決定し、情勢不穏の京都を鎮武することを余儀なくされる。
 ここに至り幕府は出羽庄内藩士・清河八郎の提案した浪士による浪士鎮圧を検討し、これを採用する。一二月九日、講武所剣術教授方・松平主税助は浪士取扱に任命され、将軍上洛の市中警護役として浪士隊を編成し入洛することが決した。この浪士隊の件が如何なる経緯で天然理心流試衛館近藤道場にもたらされたのかは、ここでは詮索しない。
 翌年、八王子千人同心には将軍上洛に際し、将軍供奉と宿営地の警護をするという御役目が急遽、沙汰された。井上松五郎もまた、その大任を任されることとなる。
「松五郎よ、昨今の若者は京を恋みてしまうらしい」
 上洛前の挨拶のため近藤周助を訪れた松五郎は、浪士隊に天然理心流試衛館の一門が参加しようとしていることを聞かされた。跡を継いだ養子・勇を筆頭に、塾頭の沖田総司や土方歳三、山南敬助その他食客たちが名乗り上げたのだという。
「お止めしたのですか?」
「んにゃ」
「止めなくてよいのですか?」
「よい」
「しかし」
 松五郎は困惑した。道場主が門人を率いて公儀の御役に参じることは悪いことではない。しかしこれでは、道場を閉めることになる。それは近藤宗家として望ましいことではなかった。
「いいのだよ。むしろ、勧めたくらいだ」
「翁先生?」
「王城の都で、天然理心流がどれほど通用するものか、儂は期待さえしているのだ」
「そういうのなら、私には止める資格はございません」
 天然理心流の剣を握る者には、わかる。
 ふつふつと、己の腕を強い輩へぶつけてみたくなる修羅の衝動があるのだ。動乱の京ならば、食うか食われるか、申し分のない修羅場だ。
「本当は、儂が行きたい」
 目の奥の青白い炎が揺らめく。老いたりとはいえ、近藤周助でさえ修羅の衝動を隠せないのだ。若い者を止めることなど、どうして出来ようか。
「千人同心というのは厄介です。同じ鬼の心情を持ちながら、枠に抑え込まれて暴れることも出来ないでしょう。宗家や総司たちが羨ましい」
 松五郎の言葉は本音だ。
 ふたりは大声で笑った。
「勇たちのことをよろしく頼む。上洛しても相談に乗ってやっておくれ」
「お任せを」
「所詮は多摩の田舎者。せいぜい都で恥を掻かぬよう、見守ってやって欲しい。これが、そなたへの、儂のからの餞別の言葉じゃ」
 井上松五郎は大きく頷いた。

 二月、千人同心は東海道経由で上洛した。
 同じく浪士隊は中仙道経由で上洛をした。このとき試衛館近藤道場の一門は如何なる編成による振り分けか知らぬが、ふたつに分けられた。近藤勇を中心とする者と、日野一帯から参加した者。このとき井上源三郎は同郷の者たちと隊列を組んだ。
 井上松五郎が入洛したのは三月四日、二条通上ル町御幸町通竹や町達摩町の旅籠松屋に草鞋を脱いだ。浪士隊はそれに先立つこと一〇日、二月二三日に入洛している。そして二九日には、新徳寺における清川八郎の東下宣言を受け、近藤勇等は京都残留を主張していた。松五郎は緊張が漲る浪士隊分裂の最中に、京へ足を踏み入れたのだ。
 三月六日、沖田林太郎・本多新太郎・佐藤房次郎・井上源三郎が松五郎を訪ねてきた。
「浪士隊はどうなっておるのだ?」
「清川に従って江戸に帰ります」
「宗家は残ると噂に聞いた」
「水戸の芹澤という一派と、試衛館の一同が残ります」
「そのあたり、よく聞かせてくれ」
 松五郎は京都に入ってからの浪士隊の動向を問い質した。その内容はとても信じ難いものだった。清川八郎の変節もさながら、近藤勇もまた、よくもまあ公の場で己の主張を堂々と云ってのけたものだと、感心するやら呆れるやら、松五郎は一喜一憂させられた。残留を決意している試衛館一門は、近藤勇以下六人。
「お前たちも江戸へ帰るのだな」
「なんだか、遠足だったよ」
 沖田林太郎は井上分家の出身で、沖田総司の姉・ミツの婿となり沖田の名跡を継いでいた。松五郎の縁者だ。ここに挨拶に寄り、その足で土産を探すのだという。
「源三郎、お前は京に残れ」
 松五郎は嶮しい表情で命じた。
「儂も京に留まりたいが、御役目があるからな。沙汰に振り回されて宗家の傍におられぬ身じゃ。源三郎はどうせ日野にいても居心地よくないだろうから、いっそ御当主を盛り立てていくがよい」
「いいのですか?」
「お前も試衛館の門人だろう」
「はい」
「道場主を見捨てること、まかりならぬ。塾頭はまだ二十歳そこそこだし、他の奴らも若い。お前がよく面倒みてやるのだ」
「心得ました」
 ようやく腰を下ろせる御務めが出来たことを、源三郎は喜んだ。
 千人同心の京都大坂に渡る活動は、六月半ばまでと決した。六月一〇日、近藤勇等は松五郎を訪れ、別れの酒宴を行った。松五郎はこのことに感激し、ひとり一人の手を取って
「御務めに励んで候や」
と挨拶した。天然理心流という多摩の無名剣術が、王城の地で花開かんことを願ってならなかった。
かくして井上松五郎は六月一六日、帰国の途に就いた。行きと同じ東海道を、ゆるゆると進んだ。
江戸到着は七月二日。その足で近藤周助を訪ねて委細を報告した。
「国家のために励んでくれれば申し分ない」
 近藤周助はそう呟き、あとは涙声で言葉にならなかった。

八月一八日、禁門の政変が勃発し、壬生浪士隊は会津藩の一員としてこれに参加、抜群の活躍を果たした。これにより会津藩より
「新選組」
の隊名が下される。

 千人同心は将軍警護の上洛をきっかけに、以後その動員力が注目された。元治元年(一八六四)三月、筑波山麓で挙兵した天狗党が上洛軍を押し立てて挙兵した。手始めに日光参詣を試みた天狗党は、今市以降の侵入を幕府側から拒絶され、西へと進路を変えた。この天狗党を暴徒と見なした幕府は、小仏関・吉野宿周辺の警護のため、千人同心に出動を命じた。更に一一月、甲府出兵と称した総勢およそ八七二名の大動員が敢行された。天狗党は中仙道を進み甲府へ立ち入る様子もなく、この出兵は戦闘に及ぶことはなかった。
 井上松五郎はこの軍勢のなかで緊張を隠せなかった。

 こののちも、千人同心は歴史の表舞台にその姿を頻繁に現わした。
 第一次長州征伐……第二次長州征伐。井上松五郎もまた、その主だった動員に参加を果たした。そんな最中、近藤勇が江戸へ一時帰国した折に、松五郎はひとつの頼み事をしている。
「次男の泰助を京へ連れて行ってくれ。刀持ちでも何でもいい、雑用でも構わぬ。こいつには武士らしい生き方をさせてやりてえんだ。半農の千人同心ではなく、剣ひとつの生き方を教えて欲しい!」
 この哀願に断り切れなかった近藤勇は、京へ戻る際に、井上泰助を伴う。このとき泰助はまだ一〇歳そこそこだった。





 慶応二年(1866)一一月一八日、第二次長州征伐に出兵した千人同心は、幕府軍が敗戦したため、日田、松山と、分散した者たちは大坂に参集し、這う這うの体で八王子へ帰還した。
 この出陣中に将軍徳川家茂は大坂城で病没し、この年師走、一五代将軍として家茂後見役を務めていた一橋慶喜が徳川宗家を相続する。剣を握る者ならば、このとき誰もが未曾有の大戦さを予見していた。
 そして慶応三年一〇月二八日、天然理心流宗家三代目・近藤周助が没した。四代目たる近藤勇は京都から戻ることも出来ず、当主不在のまま、門人以下で愛宕下金地院寺中二玄庵にて仮葬儀を執り行った。佐藤彦五郎や小島鹿之助といった有力出資者により執り行われた仮葬儀に、井上松五郎も参列した。
この頃の多摩地方は情勢不穏につき、いつ如何なるときにも、千人同心の出動が行なわれた。一二月、相模国辺りで乱暴浪人が多数現われたとされ、極めて稀なる、千人同心の総動員が行なわれた。古今において総動員された事例はない。
 狂乱の世情冷めやらぬなか、慶応四年正月三日を迎えた。
この日、上方では鳥羽伏見の戦いが始まり、新選組も剣林弾雨の最中を駆け抜けた。そして五日、井上松五郎の弟・源三郎が壮絶な討死を遂げる。泰助は必死に叔父・源三郎の御級を落として太刀を拾い、退却に随行した。しかし子供には重すぎる荷物である。仲間の隊士に諭されて、泣く泣くその首と太刀を埋めて、新選組は天保山沖から富士山丸に乗船して江戸へと引揚げていった。
 新選組の撤退と同時に、幕府の中枢は恭順に固まり始めていた。
千人同心のなかには武闘派が多く、井上松五郎もそのひとりだった。いや、多摩の豪農や天然理心流を習っていた百姓たちも
「徳川家のために」
という気っ風は捨てていない。
 佐藤彦五郎は日野農兵隊を編成し、自衛以上の調練をしていた。小島鹿之助も同様の調練を繰り返していた。これらは自警団のようなものなので、役人の関知するところではないが、千人同心はれっきとした公儀の組織である。血の気の多い者たちと冷静な者たちとが、日々進退を口論していた。
 そこへ甲陽鎮撫隊と名を変えた新選組が、甲府城を抑えるために、颯爽と進軍してきたのである。郷土の人々はすっかり見違えた旧知の男達を快く迎え、歓迎した。井上松五郎は近藤勇の小姓として務める泰助に
「よく学べ。もののふの道を、よく学べ」
と励ました。泰助も父の期待に頬を紅潮して頷いた。
 しかし、この甲陽鎮撫隊は、幕府恭順派によって仕組まれた、新選組の放逐政策のひとつであった。甲府はいち早く新政府軍に抑えられ、彼らは圧倒的な火器の前に為す術もなく敗れ去った。
 敗走する新選組に、居場所はなかった。どこへ身を潜めるか近藤勇は悩んだ。甲陽鎮撫隊は八王子の多賀神社で解散し、新選組そのものも消滅した。
「歳、付いてきた連中は」
「ああ、農兵の連中には国に帰って貰う。彦五郎さんにはすまねえことをしたなぁ」
 近藤も、土方も、落胆は隠し切れなかった。
 日野まで退いた一行を、井上松五郎が迎えた。
「ご苦労だったな。これからどうするのだ?」
「身を隠します」
 近藤勇は神妙に苦笑した。
「いや、まだ戦えるぞ」
 佐藤彦五郎は農兵隊が温存していると主張した。
「いけねえよ、彦五郎さん」
 近藤勇は多摩地方が戦火に焼けることを憂い
「隊の解散と身を隠すこと」
を強く申し出た。難色を示す彦五郎を説得したのは井上松五郎だった。千人同心としてこの地にある以上、松五郎は踏み止まる責務がある。しかし彦五郎はもともと新選組縁者が高じただけで、これ以上危険を冒す必要はない。
「とにかく宗家の関係者は、追手が来るまえに逃げろ。宗家の想いを組んでくれ」
「松五郎」
「頼む、彦五郎さん。このとおりだ!」
 松五郎の説得に、彦五郎もようやく折れた。
「兄弟子、かたじけない」
 近藤と土方は安堵の表情で頭を下げた。
 このとき近藤勇は、年少の井上泰助を罷免した。これより先は将来ある者を連れて行くことなど考えられなかったのである。
「いやです。局長、連れて行ってください」
「ここから先は足手まといだ。おまえは日野に残れ」
「局長!」
 この説得をしたのも、松五郎だ。
「泰助、お前は小島鹿之助殿のところへ身を隠せ。いざとなったら小野路村のために戦うのだ。戦いになれば子供も大人もない。立派に戦って死ね。その役目、父に代わってやり遂げろ」
 近藤勇の気持を汲んだ松五郎が、強く泰助を諭した。年少者とはいえ新選組にいたことが敵に知られたら、どのような目に遭わされるか。
泰助は泣く泣く小野路村へと走った。
 近藤たちは下総流山へ向かい、再起を図った。
 しかし近藤勇の命運は、このとき尽きようとしていた。

 板垣退助率いる新政府軍は新選組発祥の地である多摩地方を、思っていたより厳しく巡検しなかった。その背景には恭順の意を示した千人同心頭たちの真摯な態度が強く影響していた。
 三月一一日、千人頭たちは誓詞を差し出し朝臣であることを表明することで、多摩を戦火に曝す愚挙を回避した。
 その四日後、三月一五日、日光勤番に就いていた千人頭・荻原頼母が任地にて死亡した。そのため代番が急遽定められ、石坂弥次右衛門が後任に決定した。三月二五日、石坂組は日光へ向けて出立した。
このなかに井上松五郎も含まれていた。


   当意即妙





 日光勤番に就いた石坂組は、恐らく歴代の千人同心中、最も苛酷な立場に曝されただろう。
 流山で単身降服した近藤勇と袂を分かった土方歳三率いる新選組残党は、幕府のなかで恭順が飲めない旗本たちとともに北へ向かった。その進路にあたるのが下野国小山・宇都宮そして日光だった。当然、新政府軍も精鋭を率いてこれを追撃した。
 日光が戦場になる。
その危険度が、にわかに高まった。
 江戸を脱した徳川軍の隊長は幕府歩兵奉行・大鳥圭介。土方歳三は実戦経験を買われてその副長となった。一度は宇都宮城を落とした幕府勢も、新政府軍の兵力に押されて宇都宮を放棄、浮き足だった兵たちは今市で軍勢を立て直すはずだったが、東照大権現を恋みて、どっと日光へと雪崩れ込んだ。
 日光は神君徳川家康を祀る聖地であった。
 ここを枕に殉死するという気運が幕府勢に高まったが、日光山の神官たちがそれを阻んだ。東照宮を焼失させ聖域を血で汚すことを、彼らは極度に嫌った。今市まで迫る新政府軍を前に、幕府勢の取るべき道はふたつしかない。会津へ退いて戦うか、ここを死に場所とするか。
 神官たちとは別に、千人頭・石坂弥次右衛門義礼は、日光勤番に徹する使命を貫くべく
「石田の歳三と親しい者はいねえか。なんとか日光から退くよう、説得すべし」
と、同心たちに協力を求めた。この役目に名乗りをあげたのが、新井村出身者の土方勇太郎だった。
「歳さんと話したいのだが」
 土方勇太郎は単身、幕府勢の本陣に乗り込んだ。土方歳三も勇太郎が来たことを喜んだが、いまは指揮官の立場ゆえ、そう簡単に会いに行けない。そこで旧千人同心で新選組に参加した中島登が応対した。ふたりとも知らぬ仲ではない。
 勇太郎訪問の意図は、事前に書面で知らせてあった。
「副長は、日光退去を同意するおつもりだ」
 中島登はかつて千人同心時代に事件を起して八王子を追われ、以後、土方歳三に庇護されてきた。だから公私ともに歳三へ敬意を払い、いかなるときも歳三を副長と呼称し続けた。
「勇太郎殿には副長から言伝があります」
「なんと」
「彦五郎殿や鹿之助殿の御厚情により支えられましたが、もはや日野へは帰参が叶いますまい。せめて遺品として、身の回りの品を、と」
 勇太郎は真摯な歳三の姿勢に驚愕した。たかが多摩の百姓が、かくも苛烈な生き方を選びその先頭を行くというのだ。この姿勢は真似など出来るものではない。だから言葉はひとつしかなかった。
「死に急ぐなと、それだけを歳さんに」
「承知」
「井上松五郎さんからも、歳さんにはよろしく伝えてくれと云われている。併せてお伝えくだされ」
「はい」
「お前もな、死に急ぐなよ」
 こうして土方勇太郎は、歳三の身の回りを預かり、日光勤番詰所へと引き揚げた。
 その頃、井上松五郎は詰所で千人頭・石坂弥次右衛門と対峙していた。
「こうなったら武士の本懐を貫き、一戦まみえるのも道である」
と説く松五郎を、弥次右衛門は根気よく説き伏せた。
「死ぬことは簡単なり、生きることこそ苦行。敢えて苦行を進む者がなくば、大義のもののふを語り継ぐ者はいなくなる。そして蛮勇のために東照宮を兵火で失うことがあらば、それこそ徳川将軍に対する不忠に候ものなり」
と。
 このとき日光勤番にあたっている千人同心は、僅かに四五名程度だ。
 太刀に手をかけたとて、果たして何が出来るというのか。東照宮を焼く払う薪木くらいにしかならないのである。松五郎は生きて汚名を晒すことを恥じるべしと叫んでいたが、それは弟・源三郎が壮絶な最期を遂げたからに他ならない。私怨だ。そして見知る者も北へと戦場を移している。ただ座していることが辛いのだ。
「松五郎、薩摩や長州に何が出来るというのか。徳川様に代わり天下を奪うだけのことではないのか。その無様をじっくりと見定めて、時がきたら一矢報いてやることも必要ではないのか。死に急ぐな。死ぬことはいつでも出来る。いまは生きて時をじっくり見据えて構えろ」
 石坂弥次右衛門の吐く烈迫の言葉に、松五郎は返す言葉もなかった。
 悔しいが、その言葉も正論だ。
むしろ己の気持こそ、蛮勇だ。
新政府軍への恨みは強いが、いまは石坂弥次右衛門の顔を立てようと、松五郎は項垂れた。土方勇太郎が戻ったのは、まさにそのときだった。
「御頭、徳川勢は会津へ転進することを承知しました」
「ごくろう」
 石坂弥次右衛門は低い声で答えた。勇太郎は中島登に会ったことや、土方歳三の身の回りの品を預かってきたことを松五郎に告げた。松五郎は無言で、その品を見つめていた。
 閏四月一日、新政府軍は日光へ進軍してきた。この日は風の強い日だった。既に幕府勢は脱走し、日光山は静寂に包まれていた。新政府軍参謀・板垣退助と石坂弥次右衛門が顔を合わせたのは、八王子以来二度目のことである。
 東照宮は徳川家臣にとって心の支えである。板垣退助はこれを接収することで精神的支柱を奪うつもりであった。このことは千人同心たちにとっても耐え難い苦痛であった。しかし石坂弥次右衛門は同心たちを説き伏せて、新政府軍に東照宮を明け渡すことを決断した。
「承服しかねる!」
 組頭・松崎和多五郎則栄は憤慨して食ってかかったが、それを石坂弥次右衛門は根気よく諭した。
 彼らも、新政府軍も、目的はどうあれ、東照宮に傷をつけることなく残すことが願いであった。そのために取るべき手段は、無傷で明け渡すことしかないのである。
「そなたらは生きて時代を見定めろ。そのうえで時が満ちれば、再び一矢報いる機会も巡ってくる。もののふとして何を重んじるべきか、とくと思案せい」
 石坂弥次右衛門の言葉に、とうとう千人同心は一致団結し、東照宮明け渡しの儀を簡素に執り行ったのである。

 閏四月一〇日、日光の一切を引き払った石坂組は八王子へ引き返してきた。彼らを待っていたのは、中傷誹謗と非難の声だった。徳川家の聖域をむざむざ明け渡した態度に、千人頭たちも責めたてるしかなかった。その非難にも石坂弥次右衛門は一切の反論さえしなかった。
ただし、これは体面上の表現に過ぎない。
幕府はもうない。時代は移り変わっている。
無事に生きて戻った彼らを迎え入れたい本音こそ彼らにはあった。しかし、それをやってしまえば、千人同心の頭としての立場も面子も損なわれるのだ。無論、石坂弥次右衛門とて、彼らの想いを受け止めている。
いわずがもの。
男の意地と誇りが、体面だけを表に出した。
 夜も更けてから石坂弥次右衛門も帰宅した。そして、家族を集めると、日光でのことをすべて語った。
「千人頭としてはけじめをつけねば収まりがつかぬ。本日役宅にて頭たちが儂を責めたのも道理。然るに誰かが責めを負わねば、このことが大きな綻びになりかねない」
 そういって、弥次右衛門は嫡男で千人頭見習の鈴之助を見た。
「その方は石坂家の嫡男として、今後は家を取り纏めるとともに、千人頭として家来の掌握と薫陶に心を砕くべし。いざとなったら松崎和多五郎や井上松五郎といった、一騎当千の剣客どもを頼るがよい」
 そういって幾つかの家訓を言い含めると、白装束に着替えて、逍遙と腹を斬って果てたのである。翌日、このことを聞いた千人頭たちは
「心労に伴う病により急死した」
と表向きに取りはからった。しかし真相はすぐに露見するものだ。井上松五郎はあのとき懇々と諭した言葉は、よもや遺言ではあるまいかと思った。あのときから、既に弥次右衛門は覚悟を決めていたのだろう。
「お頭の言葉は遺言だ。これより先は生命を粗末には致すまい」
 これが松五郎の座右の銘となった。
 二日後には新政府に反意を持つ旧幕府兵が八王子へ逃れてきて大騒ぎになったが、松五郎はその世評にも耳を貸さなかった。ただ、新選組局長・近藤勇の死によって断絶した天然理心流宗家のことだけに心を砕いた。試衛館も近藤周助も勇もない。日野道場も人を呼べる状況ではなかった。
このままでは、天然理心流の伝統が絶える。
 松五郎は意を決した。単身、松崎和多五郎のもとへ赴くと
「近藤宗家の後継者として、勇の甥の宮川勇五郎を立てたいと存ず」
 そう訴えた。増田増六亡きいま、戸吹の総帥は松崎和多五郎だ。
「宮川という者は修練を積んだ者か?」
「勇の娘婿に迎えられる者にて、齢一七。亡き翁先生が面倒をみておりましたが、今は免許の者から学んでおりませぬ」
「おい」
「それゆえ学びが未熟にて、願わくば、戸吹の道場でひとかどの武士に仕立てて頂きとう存じます」
「それは、困るな」
「近藤宗家を守るためです。認可に戸吹の名を記したくなければ、勇のあとからでも結構。天然理心流の正統を守りたいのです。どうか、なにとぞ!」
「お前がやればいいだろう」
「戸吹との見えない垣根を取り払いたいのです。なにとぞ!」
 それが本心かと、松崎和多五郎は呆れたように苦笑した。
 松崎和多五郎は二代近藤三助筋の薫陶厚い増田蔵六直系の流れを汲む。ある意味、三代近藤周助よりも正統な天然理心流の使い手でもあった。だからこそ近藤宗家の相続には、勇の娘婿であり、勇の実兄・宮川音次郎の次男・勇五郎が適任者であり、井上松五郎が鍛えるのではなく、他流の同門から学ばせることが大事なのである。それには松崎和多五郎の剣がもっとも相応しかったのだ。
「天然理心流の火を消したら、地下の先生方に申し訳がたち申さず」
 その言葉に、松崎和多五郎は承知させられた。
「ただし、戸吹の門下に対する面子もあってな、このこと、決して表には出さぬ。儂がこっそりと出向いて鍛え、それ以外は松五郎が指導せい。認可の流れも、宗家四代目からとしよう。儂の顔も立ててもらうぞ。いいな、このこと、他言無用じゃ。儂と松五郎と、勇五郎なる者だけの胸に秘すること。これが条件である」
「心得ました」
 このことは、天然理心流の歴史には刻まれぬことだった。
 ただ周助・勇の流れだけで宗家が務まるほど、天然理心流は軽い看板ではない。これが事実であろうがなかろうが、問題ではなかった。のちの五代目が立派な宗家として大成するための過渡には、秘することのひとつやふたつの試練もあって不思議ではなかった。





 閏四月二〇日、千人同心のなかで恭順に徹しきれずに武力による反新政府運動に走る者が現れた。彼らは上野山に立て籠もる彰義隊に参加した。千人同心でこれに参加した者はおよそ一九〇余、彼らは〈八王子方〉と称して上野山に入ったのである。この八王子方の名簿を追うと、そのなかに井上松五郎の名が記されている。彼は血気盛んにこれへ加盟したのではなく、旗頭のひとりに担がれた石坂鈴之助の身を守るために
(やむなく)
志願したものと思われる。亡き石坂弥次右衛門の跡取りを、こんなことで死なせては
(地下の御頭に合わせる顔もない)
からだ。
上野戦争はただの一日で終焉した。
これに参加した多くの千人同心は、理想と現実の大きな隔たりに打ち拉がれながら、戦場から逃げ戻り、また果敢に立ち向かい討ち死にしていった。井上松五郎は戦況を判断し、形勢不利をいちはやく察知して撤退を進言し、多くの千人同心たちを救う努力をした。松五郎がいなければ石坂鈴之助もこのとき死んでいたかも知れない。
時代が凄まじい勢いで流れていた。
この流れに立ち向かおうとする者たちが土方歳三たちならば、流れに抗うことなく受け流す道を選んだのが井上松五郎だ。そしてどんなに逆立ちしても覆せぬ現実、もう徳川幕府はないのだということを、強く認識していたのも松五郎だった。
(時代を見据えてやる!)
 その一心だけが、松五郎を支えていた。

 明治二年(1869)五月一八日、最後まで徹底抗戦していた榎本武揚等が降伏し、箱館戦争も終結した。ここに戊辰の大乱は終息を迎えたのである。土方歳三はその降伏する直前に死地を求めて壮絶な最期を遂げた。歳三の小姓だった市村鉄之助が、遺品を持ち、佐藤彦五郎のもとを密かに訪れたのも、この年のことだ。フランス軍服に身を包み、寂しげな表情を浮かべた写真と、愛刀和泉守兼定の長脇差。土方歳三は初めから生き延びることを考えていなかったのだろう。
 そして千人同心は、既にこの世から消滅していた。
かつての同心たちは、帰農か、徳川移封地随行か、ふたつにひとつの道を選ぶしかなかった。千人頭たちは徳川家に殉ずるため、静岡へと旅立った。そして多くの同心たちは帰農の道を選んだ。半農半士の同心たちにとって、これは振り出しに戻るだけのことだから、些かも苦になることではなく、新政府勧告もあっさりと受け容れられた。
井上松五郎も日野を離れる気になれず、この地で生きる道を選んだ。しかし身の振りはどうあれ、天然理心流の剣士としての誇りは捨て去る気もない。農業の傍ら、郷土の子供たちに細々と剣と学問を教えて余生を過ごす覚悟を決めたのである。その頃には泰助も何喰わぬ顔で井上家に戻っていたが、彼は父が苦悩したこの一年余を知らなかったし、語られもしなかった。
 佐藤彦五郎はこの年、代々世襲してきた彦右衛門に改めて、地域の活性を務めることを決心した。かつての新選組関係者は、中央から派遣されてくる役人どもから相当の風当たりを被った。が、佐藤彦右衛門が毅然としていたので、地域の人々も変節することなく彼を支持した。
 多摩地方では明治維新とはいわない。
 徳川の瓦解という。
 それほどまでに天領という誇りが人々の心を強く支配していたのである。井上松五郎はそのなかでも際立った存在だった。子供たちに学問を教授する際も、剣術を教える際も、徳川家臣としての礼をまず重んじた。常に江戸へ一礼してから物事を教えたのである。これは東京と名を改めた首都に腰を下ろした帝に対するものでもあり、かつての主・徳川家に対するものでもあった。
「礼に始まり礼に終わる」
 その精神を遵守する松五郎は、明治の御世になっても、やはりもののふの気概だけは捨てられなかったようである。
 泰助もそんな父から厳しく手解きを受けた。剣術は特に厳しかったが、新選組の屯所で受けた手解きに比べれば些かも苦ではなかった。当時はまだ沖田総司も動けたから、よく可愛がって貰った。
このことを泰助は近頃よく思い出す。
「総司さんは華奢なくせに強くて、教え方も上手だった。なぜ誰も病人の総司さんから一本取れなかったものか。源三郎叔父さんがこんなことを云っていました、左ギッチョから一本取るのは至難の業だ、と。そういわれてみれば、総司さんの構えは合わせ鏡のように、違和感がありました」
 松五郎は黙って頷くだけだった。
 死した者たちのことを悪し様に新政府は罵った。これは、勝者の驕りだ。
しかし、そのようなことは些かも構わぬことだと、松五郎は声を大にした。
「敵将であっても死ねば敬意を払って恨みを忘れる。これが幕末を潜り抜けてきた男の心がけだ」
泰助はそう教えられてきた。だから、その教えを素直に受け止めていた。
 この教えがあったからこそ
「もののふたれ」
という侍気質が泰助に強く根付いたといえよう。

あたらしい時代。
松五郎にとっての戦いが始まるはずだった。


   霜止出苗


 明治四年(1871)四月一日、日野本郷の井上家には多くの人々が集い、嗚咽を漏らしていた。かつて日野本郷の組頭の家として地域に心を配り、時に応じては千人同心石坂組の世話役を務めた井上松五郎が、この日、〈はやり病〉であっけなくこの世を去ったのだ。
 枕元でその死を看取ったのは、長男の定治郎、次男の泰助、それに元名主の佐藤彦右衛門と妻ノブ、その他井上家の眷属たちであった。
「とにかく松五郎だけはしっかりと送ってやらねばならねえ。定治郎も心して務めることだな」
 佐藤彦右衛門が小さく呟いた。
 軽い咳を繰り返しながら、定治郎は頷いた。
「ところでお袋さまは?」
 彦右衛門が訊ねると
「床に伏せたままで」
 定治郎は目を伏せた。松五郎の妻はこのとき高熱で起きあがれない状態だった。明らかに松五郎とおなじ病であることは、誰の目にも明白だ。おいたわしや、佐藤彦右衛門はそう呟いて、松五郎へ視線を落とした。
「かつては剣一本で世を渡れた猛者だったのに……」
 井上松五郎という人物は剣客としても多摩近在で知らぬ者はなかった。そのくせ性格はどこかおっとりとしていて、つい心を許してしまう、そんな不思議な人格者だった。
「寂しいものですね。この五年余りで、たくさんの知り合いがこの世を去ってしまいました。その人たちをよく知る松五郎さんも、こうして逝ってしまわれた。明治という御代になってから、わたしたちは辛いことばかり強いられます」
 彦右衛門の妻・ノブが涙をこぼしながら呟いた。
 ノブの実弟は新選組副長・土方歳三である。歳三は二年前、五稜郭の戦いで戦死して、亡骸さえ見つかっていない。ここに集う者たちは、遠からず新選組に縁深き者たちばかりだ。今日彼岸へ旅立った松五郎は、新選組六番隊長の井上源三郎の実兄。更にいえば佐藤彦右衛門は新選組の有力出資者のひとりとして、局長・近藤勇とも義兄弟の契りを結んだ。彼らは天然理心流という剣術を通じて親睦を深めた〈身内〉同然の人々なのである。
 松五郎こそが、天然理心流を日野へ流行らせた張本人だ。
 松五郎がいなければ、ここにいる誰もが、かくも深く親しみを結ぶことはなかったのである。とまれ人の世の奇縁はひょんなことから始まり、その輪の要が、こうして消えてしまうことは、残された彼らの悲しみをより深いものにするのであった。
「泰助、そろそろ若先生が見えられる頃だ。門前で出迎えなさい」
 定治郎の言葉に、弟の泰助は従った。近藤勇の跡を継いだ五代近藤宗家・勇五郎は府内から引き払い、上石原に納屋のような道場を構えて門人を指導していた。
「せめてあいつに祝言を上げさせてから旅立てばいいものを……松五郎も急いたなあ」
 彦右衛門はぽつりと呟いた。

 井上松五郎の家は、実に不幸が続いた。
 四九日も迎えぬ間の四月二八日、松五郎の妻が死んだ。松五郎と同じ〈はやり病〉である。たった一ヶ月の内に
「両親の喪主」
を行うことになった井上定治郎の心労は如何なものだったか。
周囲の心配するなか、今度は定治郎が床に伏した。同じく〈はやり病〉だ。松五郎の葬儀の頃から妙な咳をしていると誰もが思っていたが、とうとう最悪の事態になってしまったのだ。
五月九日、井上定治郎が僅か二〇歳でこの世を去った。
忌まわしい〈はやり病〉は、このとき世の中を物凄い勢いで席巻した。その悪魔が、日野の人格者を、親子ともども死に至らしめたのだ。
残された次男の泰助は、やるせない想いを強く噛み締めていた。
「泰助も一五だしな、そろそろ嫁を迎えて家を継ぐしかあるまい。な、嫁は儂が世話してやるからよ」
 佐藤彦右衛門が親身になって、これからの泰助の面倒をみると買って出た。
泰助には姉と妹がいる。もっとも姉・モトは元新選組隊士・松本捨助に嫁していたから身の振りに心配はない。妹のハナは嫁入るにはまだ幼い。彦右衛門は、これも面倒をみると云った。
「ハナはな、ゆくゆくは芳太郎の嫁にしよう。いやな、以前、林太郎とも話していたのよ。これは松五郎も承知していたことだ。ミツも沖田の嫁は井上家から欲しいと云っておったのだ」
 もともとは井上の一族だった林太郎は、沖田総司の姉・ミツを娶り、同時に沖田家の名跡を継いだ。慶応四年二月に沖田家の主筋にあたる庄内藩へ引き上げたので、もう随分と林太郎は日野とは御無沙汰である。ミツは弟の総司とは異なり身体だけは丈夫だが、子縁は続かなかった。ひとり息子の芳太郎はまだ嫁取りに早い歳だが、将来のことを考えれば井上の家から嫁を迎えたいという林太郎の意思は、ハナにとっても有難いことであった。
 泰助はぼんやりと父母と兄の位牌をみつめていた。
泰助は一五歳になった。彼が刻んだ一五年は、余人の計り知れぬ激動の渦中にあった。
「のう、泰助」
 隣に腰を下ろした佐藤彦右衛門は、感慨深げに手を合わせながら、ぽつりぽつりと呟いた。
「お前の親父は立派な男であった」
「……はい」
「お前は松五郎の懇願で、新選組に入隊した。松五郎も思いきったことをしたと、あのときは誰もが気を揉んだものだ。しかし、今にして思えば、松五郎の選択に間違いはなかったと思うのだよ。いいか、お前の親父は日野の百姓侍じゃない、天下のもののふだ。武士としての生き様を、お前に叩き込むつもりだったのだろうな」
「わたしは子供でしたから、そんな真摯に受け止めていませんでした」
「ふむ」
 佐藤彦右衛門は足を延ばすと、大きく息を吐きながら、言葉を探した。
 床の間に飾られている大和守源秀國の大小は、かつて近藤勇が松五郎に贈呈した名刀である。ほんのつい最近まで、生前の松五郎が丹念に手入れを怠らなかった業物だ。かつて松五郎は、これを腰に、日光勤番にも長州征伐にも赴いたのだ。
「刀は武士の魂というが、まさにこの大小は松五郎の魂だった」
 これからのことは、これからの風に任せればいい。
泰助はそう思っていた。父との思い出は薄かったが、日野には多くの者たちがいる。皆々が井上松五郎という男を知り、慕っていて、その死を悼んでいる。
 井上泰助もその父に負けぬよう
「もののふたれ」
と、明治の風に立ち向かうべく、胸一杯に息を吸った。
 千人同心としての誇り、天然理心流剣客としての誇り、井上松五郎はそのすべてに恥じぬ生き方を求道してきた。泰助もまた、松五郎の子という、大きな誇りに恥じぬ人生を送る覚悟を定めた。嶮しい求道だが、きっと父が見守ってくれるだろう。

 泰助がこの世を去るのは昭和二年(1927)、その瞬間まで、生涯侍気質であったと、子孫はいまに語り継いでいる。
 泰助は父の形見の大和守源秀国を終生大切にし、丹念に手入れを怠らなかった。鞘にまで拵えをつけて大切にした松五郎の遺志を継ぐかのように、それさえも丁重に扱った。近藤勇から贈られたこの刀は、天然理心流に最も適した反りのない刀身である。天然理心流は突きに主眼を置いた剣術だ。近藤宗家からの贈り物としては、まさしく理に適った武士の魂といえよう。
 その生き方に相応しい直刀。
 それが井上松五郎という〈もののふ〉を象徴していた。

 




     本編の一部に、構成上の創意が含まれていることをご承知おきください。



【参考史料】


◇「八王子千人同心井上松五郎 文久三年御上洛御供旅日記」
                      日野の古文書を読む会研究部会・解読
                                     編集
                            井上源三郎資料館・発行

◇「新選組日誌 上・下」
                                菊池 明
                                伊東成郎
                                山村竜也・編
                              新人物往来社・刊

◇「八王子千人同心史 通史編」
                           八王子市教育委員会・発行


【参考文献】


◇「ブックレット 千人のさむらいたち ~八王子千人同心~」
                                村上 直・監修
                           八王子市郷土資料館・編集
                           八王子市教育委員会・発行

◇「井上松五郎源三郎兄弟の事跡」
                                谷 春雄・編著
                          日野市ふるさと博物館・協力
                            井上源三郎資料館・発行

◇「武術・天然理心流 上 新選組の源流を訪ねて」
                                小島政孝・著
                               小島博物館・発行

◇「新選組余話」
                                小島政孝・著
                               小島博物館・発行




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