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泰助の記 もののふの道




燃ゆる魂−   士道に背かず!

井上源三郎の軌跡


 日本地図入手が発覚してシーボルトが国外追放となった事件の翌年、文政十二年、代々八王子千人同心を勤めてきた井上家・井上藤左衛門の三男として、多摩郡日野宿北原に生を受く。
 若くして日野宿金子橋にあった日野嘉蔵義貴の寺子屋で学問を修めた。

   日野宿 欣浄寺の日野義貴の碑(井上源三郎資料館向い)  日野義貴の碑   門人名(基石裏面上段↑に源三良として刻まれている)

日野宿 欣浄寺の日野義貴の碑(井上源三郎資料館向い)   門人名(基石裏面上段↑に源三良として刻まれている)


 生来、武を尊ぶ。弘化四年頃、兄・松五郎に伴われ天然理心流の近藤周助に入門し、十年余の鍛錬を経て万延元年には晴れて「免許」を授かる。この間、安政五年には、現在の八坂神社に剣術の技倆熟達を祈念する額を同門二十六名で奉献す。

幕末の風雲急を告げる文久三年、幕府は将軍家茂の上洛に当り、その警護役の浪士を募った。源三郎は、近藤勇、土方歳三、沖田総司等と共に応募し、同年二月、江戸から木曽路(中山道)を京都に向かった。この時、将軍家茂は東海道を上洛したが、この警護には八王子千人同心も加わり、その中には兄・松五郎もいた。

 京都到着後、幕府は清川八郎の策動に驚き浪士組に帰東を命じたが、近藤一統と供に京に留り、京都守護職会津藩主・松平容保公預りの帝都治安部隊「新選組」に参加。局長・近藤、副長・土方のもと、自らは副長助勤・六番隊組長となって隊士を率いた。
 元治元年六月の池田屋事件では、その勇戦の功により、金十両、別段金七両の褒章を受けた他、同年七月の蛤御門の変からその後の天王山攻撃等に奮闘活躍、存分に腕前を示すも、時代の形勢は日々幕府に背を向けていった。

 慶応三年十月、徳川慶喜が大政を奉還、続いて十二月に王政復古の大号令が発せられるや、薩長の強引な追討方針に幕府側が反発し、慶応四年一月三日、鳥羽・伏見の戦いの戦端が開かれた。一月四日、淀堤千両松に布陣し、砲煙弾雨の中での激闘中、銃弾に斃れた。享年四十、壮烈無比な最期であった。その様子は、甥の井上泰助が生家に伝えた。源三郎は知勇兼備、寡黙実行の人であり、新選組に於ての存在は常に誉れの光彩を放つ。


■ 井上松五郎についてはこちらをご覧ください。


■ 井上泰助についてはこちらをご覧ください。










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